友人がいるだけで生活は豊かになる

今度友人とプールに遊びに行くことになった。プールなんて何年ぶりだろうか。久しぶりなので今から楽しみだ。

いまでこそ自分には友人がいるが、友人のいない生活を随分送ってきた。

 

ひきこもってもう何年になるだろうか。

最初にひきこもったのは中学1年の頃だった。

中学に入ってすぐに学校に馴染めなかったので不登校になった。それからというもの、ほぼひきこもりの生活を送っている。中学はほとんど登校せずに卒業。現役で入った定時制高校は2年に中退。仕事もバイトくらいしかしていなかったせいでろくに収入もなく貯金もない。友達と呼べるような人もいず、ただなんのために生きているのかわからないゾンビのような生き方をしていた。

高校生になってからは外に出られるようになったので、呼び名としては社会的ひきこもりだろうか。あるいは、診断を受けたわけではないが社会不安障害だろうか。

ひきこもりをしていると人との接点が生まれるわけもないので、人と疎遠になっていく。当然友達も出来ない。自分はいまだにひきこもりとして生活できているが、幸いにも20代になってからできた友人がいるので、10代の頃のひきこもりとは状況がだいぶ違う。自分にとって友人がいるというだけで随分救われている気がする。

友人がいれば遊びにも行けるし、連絡取り合って近況報告もできる。たったそれだけのことでも、普段の生活は潤う。友人がいなければ、引きこもり体質の自分はそもそも外に出ることも少ないだろう。友人が誘ってくれたり、こちらから誘ったりするから外に出る理由が生まれる。そうして遊びに行ったりご飯を食べに行ったりで外に出る。それだけでも生活が楽しい。

 

自分はこれからもひきこもるだろう。しかし、ときには外にも出るだろう。一人で、あるいは他の誰かと一緒に。そうした生活を共有できる友人という存在は、それだけで人生を豊かにしてくれる。

再度、心療内科に通うことになりました。

8/6に心療内科に行った。

実にほぼ1年ぶりに行った。自分は去年の11月に仕事を辞めてからずっと引きこもっていた。本当に家から出なかったし、毎日PCでネットサーフィンをしたりアニメを見たりといった生活をしていた。

そんな生活をしていたときに、以前体験利用していた就労支援移行事業所の方から電話が来た。就労支援移行事業所とは、主に障害者の方が就労するための訓練を行う事業所である。自分はうつ病と診断されて就活もままならなかったことがあったときに、利用しようかなと思って市内の就労支援移行事業所を体験してみた。去年の3月頃だったと思う。1週間の体験を終えた後に職員の方から、自分はここを利用するような人ではない、ここではなく職業訓練校を利用してみてはどうかと促されたのだ。就労支援を受けたかったのだが、職員の方から見た印象として自分は就労支援を受けるには不適だったのだろう。まぁそれならしょうがないと思い、そこのことはすっかり忘れていた。

ところが、先月そこの職員の方から電話が来た。体験者の名簿を見ていたときにどうしているかと気になったので電話をしたそうである。引きこもっている現状を話すと、それならばうちの事業所を利用しないかと勧められた。

どうして一度断ったのにもかかわらず、今度は誘ってきたのか。その方いわく、自分が体験利用したあとにうつ病のことについて勉強をしたそうだ。勉強していくうちに、うつ病者の中には別の精神疾患のためにうつ病を併発する可能性があることを知った。もしかしたら自分のことをうつ病の他にも精神疾患、(その人は発達障害だと睨んでいる)があるのではないかと気になっていたらしい。そんなこともあり、偶然電話をする機会があったので電話をしてきたのだという。

自分としては丁度ひきこもっていて暇しているので就労支援移行事業所を利用してみるつもりである。そのために自立支援医療制度を再度取得するために、また心療内科に通うことになる。今までの生活にも飽きてきたので、電話をかけてきてくれて丁度よかった。環境が変われば、きっと何か変えられるだろう。いい方向に進めていきたい。

目的を達成するには完全主義を捨てて間違いを楽しむ

完全主義にはいいところがない。

なんでも完璧にこなそうとしてしまおうと考えると、極端に時間をかけて欠点をなくしていこうとするか、もしくはどうせ完璧に出来ないのだからと考えて全く手をつけないでいてしまうからだ。

 

本来物事には完璧というものなどない。それでも完璧にしてしまおうと考えてしまうのは、人間の性なのかもしれない。もし完璧主義に陥ってしまったのなら、適度に手を抜いてみるのだ。完璧を目指して莫大な労力をかけるのでもなく、どうせ出来ないのだからと自暴自棄になって手を付けないのでもなく、適当にいい塩梅に手を付けてみる。そうすることで100にはならないが、0にもならない。20か10か、もしくは1でも前進することにはなる。これを積み重ねていけば、やがて100に到達するというものだ。

 

ここには成果を出すという目的以外にも、達成感が生まれることにもなるのだ。

これだけやったと目に見えれば、それが自信にもつながる。それが自己肯定感を生み、さらにやってみようと行動にもつながっていく。えてして完全主義者は決して満足することがないから、自己肯定感は低い。どれだけやっても、まだまだ全然足りないと考えてしまって、自己嫌悪と罪悪感にまみれてしまう。

 

完全主義を回避する考え方として、結果が全てではないことを認識することが必要だ。

最終目的に到達するために過程が必要なのは言うまでもない。しかし、ゴールに到達することが目的だったとしても、過程をないがしろにしていいというわけではない。過程とは、最終目的に到達するための小さな目的の集まりだと考えるのだ。それらの小さな目的は、最終目的のための目的であると同時に、それ自体満足感を与える目的なのだ。いわば小さな目的を達成すること自体が成功の連続なのだ。

 

例え小さな目的を達成したとしても、最終目的を達成できなければ成功ではないと考えてしまわないだろうか?

その考え自体がまさに完全主義なのだ。人間は誰しも間違う生き物だ。成功もするし失敗もする。誰も成功を先取りして行動することなど出来ない。では間違ったら、そこに価値はないのか?

いいや!間違うこと自体に価値があるのだ。

なぜなら間違いが起これば、修正をかけてより自分が望む方向へと軌道修正できるからだ。だからより早く間違いを起こし、軌道修正を出来るだけ早くかけることができれば目的達成に早く近づくことができる。

 

完全主義を捨てよう。

間違いを楽しもう。

それが成功に至る近道になる。